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- 「治験、その科学性と論理性について」三浦 捷一医師より
- 大阪府内がん拠点病院11施設における5年生存率の情報公開 について
第1回 がん患者大集会
開催日時:2005年5月28日
ところ : NHK大阪ホール
第2回 がん患者大集会
開催日時:2006年3月19日
ところ : NHK東京ホール
第2回がん患者大集会
全国からがん患者、ご家族2100名のご参加を
頂きありがとうございました。あわせまして、
ご協力頂きました方々に、厚く御礼もうしあげます。
NPO法人「がんを語る有志の会」は、
現在の日本の癌治療環境の改善を図ろうと、主に関西を拠点に有志が集い結成されました。
{SINCE2004年2月}
第1回がん患者大集会
全国からがん患者、ご家族2100名のご参加を頂きありがとうございました。あわせまして、ご協力頂きました方々に、厚く御礼申しあげます。ご意見・ご感
想メールにて、お寄せ下さい
第1回がん患者大集会報告
がんを語る有志の会より
理事長 和田 弘 会員一同より
「がんを語る有志
の会」初代代表、三浦捷一氏から引き継ぎして、5年になります。当会も今までの会員さんと、新しく入会された方々と共に、今まで通り頑張っ
ていきますので、今後とも以前と同じ様に、宜しくお願いいたします。
がん医療の充実 (がん診療 連携拠点病院)
がん医療連携拠点病院
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・府独自の用件:がん登録が行われていること、診療実績を公開する こと
・大阪市内:大阪府立成人病センター、大阪府立急性期総合医療セン ター
大阪市立総合医療センター、大阪赤十字病院
・豊能圏
:市立豊中病院
・三島圏
:高槻赤十字病院
・北河内圏
:星が丘厚生年金病院
・中河内圏
・南河内圏
:大阪南医療センター
:東大阪市立総合病院
・堺圏
:大阪労災病院
・泉州圏
:岸和田市民病院
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三浦捷一(しょういち)医師のプロフィール
昭和14年の早生まれ。
昭和38年大阪大学医学部卒でインターン1年後に医師に。
昭和43年から46年まで、あしかけ3年をNYロックフェラー研に留学。
帰国後、昭和50年10月から済生会中津病院の産婦人科部長に赴任。
10年後の昭和60年9月に、肝炎で倒れて、年末に中津病院を辞職。
心配した友人達の計らいで、61年10月に福島区で内科医院「三浦クリニック」を開業。
平成12年に肝臓がんが発覚。
非環式レチノイドという再発抑制新薬の存在を知り、福島雅典医師や平岩正樹医師とやり取りして、「癌患者が治験段階の新薬を自己責任で使用する」という米国流の考えを国にアピールするが不発。
患者会活動の重要性を感じ、「肝臓友の会」に入会し活動するも不発。
平成13年に「癌治療薬早期認可をもとめる会」を創設し活動するも、また、不発。
厚労省のコンニャク問答に憔悴し、もっと強い患者会の必要性を感じ、他の患者会にも呼び掛けて平成16年に「がんを語る有志の会」を創設。
平成17年に「第一回がん患者大集会」を成功させ、がん患者のリーダー的存在となる。
さらに全国の患者会に呼び掛け、平成18年に「がん患者団体支援機構」を創設するも、「第二回がん患者大集会」を目前に死去。
三浦医師が立派だったのは、「医師の立場を使って自分が新薬を入手できればそれでOK」としなかったことです。
日本社会においては医師は特別な存在であり、医師ばかりで交友関係を築く傾向がある中、三浦医師は一般人と共に患者会活動を行い、そして、死んで行きました。
(三浦捷一氏が提案したこの構想が現在の「がん情報センターの」原 案になっています。)
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(これは、三浦捷一氏のがん治療改革運動の中心的課題でした。)
私が最初に手術したのは、平成2年でした。がんの告知はされず、「肝臓血管腫」と言うようにきかさ
れていました。平成9年に胸壁に転移したのですが、それも、腫れ物(ガングリオンのようなもの)と説明を受けました。その2年後に肺に多発転移し、治療方
法が無いという状態になって初めて、「実は肝臓がんで、その肺多発転移であって、現状では治療方法はありません。」と言われて、ホスピスへ行くように勧め
られました。
そのとき、西宮に在った息子の会社が地震でつぶれて、息子は東京勤務になっていました。その上司の兄さんが、東京の築地にある「国立がんセンター中央病
院」で治療を受け、かなり良い経過であるから、と言うことで、息子ががんセンターで治療できるよう折衝してくれました。それが、功を奏して、肺転移のがん
がほとんど消えました。
しかし、消えきらなかったがんが、また大きくなりだして、「これ以上強い抗がん剤は、身体に負担が多すぎて使えない。治療はここまでです。後は、ターミ
ナルケアの施設を紹介しますからそこで、QOLを中心にケアしてもらってください。」と言われて、治療は打ち切りになりました。
自覚症状が特に有る訳ではないし、このまま人生を諦めるのは勿体無いと思って、肺にあるがんを摘出してくれる病院を探すのですが、「肝臓がんの肺多発転
移は末期がんであって、科学療法も手術もしないのが医学の常識」と言って6,7箇所の病院で治療を断られました。しかし、東京のある病院で「胸を開いて、
いま、確認できている3箇所以外にがんが無ければ、手術をしてみよう。もし、他にあることが分かったら、その時点で手術は中止するが、それでも良いか。」
と言うことに対し、それでよいと言う確約上を書いて手術をしました。その後、予防的に抗がん剤投与を受けましたが、1年後に再発し、今度は胸空鏡を使って
手術をしました。その後、こんどは、自分のリンパ球を培養して戻す「養子免疫法」の治療を受けました。これが最終的に効いたのか、現在、再発の心配をしな
がらも、日常生活を送っています。
以上が私の治療経過です。治療中は、抗がん剤の副作用で苦しんだり、手術の痛みに耐えたり、いわうゆる、死の崖っぷちを這い上がるのに必
死で、腫瘍マーカーに一喜一憂しながらも、精神的には安定していました。しかし今は、余裕が出来たのか、治療中に感じていた疑問(生物は普通、次の世代を
残した段階で、親は自分の生命を閉じるのが一般的であるのに、自分は孫まで居るのに生き続けようとしている。これは生物として不遜ではないのか。)を強く
意識するようになり、畏れを感じています。
多くの病院で治療を受け、そこで、多くの患者と同室になりました。お互い、「よくなろう。頑張ろう。」と励まし合ってきましたが、その多くの方達は鬼籍
に入っておられます。私は、幸運にも、4期の末期がんから日常生活が出来るまでに回復しております。一日一日に感謝し、生きる喜びを日々噛み締めていま
す。そして、「この幸運を享受するだけで良いのか。」と言う思いもあって、「がん患者の悩みに少しでも応えていきたい。」と「がんを語る有志の会を」続け
ています。
がんに罹り「がん難民」になるまでは、良い患者は、「医師の指示を素直に聴き忠実に守って治療に励む者」だと思っていました。それが、まだ自覚症状もあ
まり無い症状の時に、「もう治療法は無い」と宣告されて、病院との関わりを一方的に閉ざされてしまったのですから、本当に戸惑いました。その時から、「病
院には標準的治療はあるが、個々の患者に合った治療はないところ」と思うようになりました。治療するのは本人で、治療方針を決定するのも本人であるという
ことです。これをベースに「患者会」でお互いに励ましあいながら情報交換をしていこうとしています。
日本の医療は、基本的に、患者個人の希望を聞いて治療するようになっていません。これには、2つの理由があるように思います。
一つは、今の医療体制は、明治以降確立されました。江戸から明治になるとき、国家確立が中心であつたため、個人の幸せより、国家の枠に合わせて設定され
ました。そのため、「学識経験者とか、知識人とか言われる人たちによって、(無知な国民に代わって、)国家に良かれと思われる体制として設立されまし
た。」のではないでしょうか。
もう一つは治療が西洋の科学に基準があるため、知識中心で、病院(医師)の知識に無い症状には、対応できないシステムになっています。(医師は、 「患
者を診る」のでなく、「患者の病状を見る」傾向にあるのではないでしょうか)
この結果として、医師は一段高いところから見ている人で、患者と対等ではないと言う前提が出来ているように思われます。今のがん治療は、治療が日進月歩
であるため医療行政の遅れや、欠陥が目につくのです。どの様にしてそれを感じるかといえば、インターネットなど情報提供システムの進歩で、専門家でなくて
も、がん治療の最新情報が、入手できるようになり、自分の状況と比較できるからです。それと、医療を受ける主体は患者であると言う雰囲気が重んじられるよ
うになってきたからです。(例えば、インホームドコンセント、セカンドオピニオンなどと言われるようになってきたことです。)
(二代目代表 橋本榮介記)
「がんを語る有志の会」は、2004年に大阪の「癌を語る会」をベースに4つの患者会のメンバーが集う連合として発足しました。代表者は故三浦捷一医師です。
そして、今や伝説となった「第1回がん患者大集会」が企画開催されました。
「がん患者大集会」は、全国の患者会の皆様の協力により大成功をおさめる事ができました。
しかし、国にがん対策をはたらきかけるには、やはり、首都である東京に患者会の大連合組織を設置した方がよかろうとの、故三浦医師の提言により、「がん患者団体支援機構」が生まれました。
こうして、「がん患者大集会」は、第2回目から「がん患者団体支援機構」に引き継がれたのです。
がんを語る有志の会 会則書(2005年、2007年)